歩み(20周年)

はじめに

茨城県大洗サンビーチは、都心から約2~3時間、常磐道と北関東道がつながったこともあって「海なし関東圏(埼玉・群馬・栃木)御用達」海水浴場の様相をさらに増したようだ。長さ1,300m、幅500m、広大な視界に人工物の影が少ないことが「癒し」になるのか、年間を通じて訪れる人は絶えない。

震災前には海水浴期間だけでも例年65万人以上(最盛期は、1日5万~8万人)が利用する遠浅のファミリービーチだ。波が、年々なくなってきていることが多少不安だが、砂浜は、我々が「定着」し始めた十数年前から200m以上延び続けている。

「定着?」
まさにサンビーチと我々ライフセーバー(以下、LS)は一体化して歩んできた。毎年、試行錯誤を繰り返しながら、LSと地域 (町)が紡ぎ合い織りなした海水浴場は、現在「ユニバーサルビーチ」と名乗っている。無論、現時点では“希望を込めた未完成品”としてさらなる進化を模索しているが、道のりは遠いようだ。パズル完成のヒントを得るためにも“自治体によるビーチづくり”の一例として、LSに託されたサンビーチ海水浴場の軌跡を振り返ってみよう。

スタート地点を振り返る
(1992年~1994年)

そもそもの大洗町とLSの出会いは……1992年、サンビーチ夏期シーズンパトロールに「東京LSクラブ」からLS数名が試験的に送り込まれたことに始まる。

2年目となる1993年、4ヶ所(当時)のパトロールタワーのうち1か所にLSが配置された。「監視員の高齢化」、「救助・応急処置」を課題としていた大洗町は、次期シーズンのサンビーチ・パトロールについて、その活動を評価して、LSに全面依頼することを決定した。

当時の担当職員が驚くほどLSを調査していた上に、「地元ビーチを良くしたい」という極めてシンプルで強い情報に触発され、LS側は快諾しないわけにはいかなかった。当時、各地を回って会見した多くのビーチ担当者の目的が単なる「監視員人員要請」であったことに比べて、大洗町からはLSに対する深い理解が伺えた。実際、この大型ビーチを完全にリセットして、企画運営を「ゼロからLSに任せる」という要請に我々への絶大なる信頼を確信した。「一蓮托生」。意気に感じ、迷わず「大洗サーフ・ライフ・セービング・クラブ(OSLSC)」を旗揚げしたが、大型ビーチゆえの人材確保やシステム等に関し多くの問題が残っていた。なかでも「ビーチづくりのテーマ」を絞ることが最も重要な課題であった。

1994年6月には、地元で、初の「LS講習会(5日間の泊り込み)」を実施し、夏までに各地から約80名のLSが集結した。訪れる外国人のために8ヶ国語の安全看板を設置したり、我々自身の拠点となるラージサイズのタワーを設計、配置。また、「LSは、ビーチのデザインの一つ」と考え、トレードマークのユニフォームを一新した。

ビーチづくりと地域振興

 ビーチづくりをしていくうえで、「地域振興」を基盤にしながらビーチのテーマを次の3つとした。

①誰もが安全に楽しめるビーチLSとしての理念を具体化し健全な環境をキープする

②意識を持ったビーチ
地元+LS+利用者の「三位一体」で浜にモラルと品性をキープする。

③実験&情報発信ビーチ
アミューズメントビーチを目指して、可能な限り様々な取り組みを試行し、他の浜に情報提供していく気概をキープする。

最初の取り組みとして、LS導入の初年度を映像で記録し、海水浴場を持つ自治体向けに“簡単に導入できるLS”というプロモーションビデオを制作することにした。莫大な費用がかかったが、LSを国内に普及する事こそが一人でも多くの命を救う可能性へとつながると信じて断行した。

この3つのテーマに沿って、パトロール期間中に3つのキャンペーンを開始した。

①セーフティキャンペーン

◯タワーを拠点として、子どもたちに「海の知識」、「健康対策」、「事故対策」等を紙芝居で啓発。

◯「もしもの時」の国際的な「助けてサイン」を看板・チラシで普及。
「もし、沖で戻れなくなったり、溺れている人を発見したら、『助けてサイン』でお知らせください。それでは浜のパトロール隊員のサインをご覧ください……」という内容を1日2回放送する。当初は大した効果を期待せずに始めたが、最終的には、そのおかげで、どれだけたくさんの人を早期に安全移送できたことか!溺れかけている女性の傍らで、小学生がサインを出して助けたケースなど、枚挙にいとまがない。

②クリーンキャンペーン

 ◯朝夕LS自身がゴミを拾うのは無論だが、利用者に袋を配布し、毎日一斉にゴミ拾いを行う。

 ◯子どもたちに紙芝居で環境意識をアピールしたあと、ゴミ拾いをしてもらう。

 ◯切り出してきた竹を切り、灰皿を大量に作って各タワーで貸し出した。

③スポーツキャンペーン

 ◯いろいろな浜の遊び方を味わってもらおうと、呼びかけで集まった利用者が一体となって、綱引や鬼ゴッコといった浜辺でのレクリエーションを企画して楽しんだ。特に、遊泳禁止時には効果的であった。

「バリアフリービーチ」の誕生
(1995年~1999年)

1995年には、県内の海水浴場にLS活動を紹介し、安全対策として国際標識である「赤&黄のエリアフラッグ(遊泳エリア国際サイン)」の普及活動を展開。国際人事交流事業として、オーストラリアLS視察ツアー(観光課職員同行)を実施し、次年度からオーストラリアのトップLSをサンビーチ・パトロールに迎えて、さらなる技術向上を図った。また、「IRB(エンジン付救助艇)講習会」も開始した。

前年、地元の子どもが海水浴に来ないという事実と、小学校にプールがなくて、泳げない子どもがたくさんいることに驚き、子ども向けの「ジュニア・ライフセービング・プログラム」をスタートした。

年配者の話では、「ひと昔前までは、子ども同士で毎日のように海へ行って、ガキ大将が年少の子どもを突堤から放り込んで、溺れる寸前に助けにいって、泳ぎを覚えさせた」という。ちなみに今のこのご時世、「そんなこと、できめぇめ。」ならば、子ども時代に海を好きになってもらうこともLSの使命だと理解した。そして、この頃、何処からともなく現れた海族船長ZICOが、子どもたちとのプログラムに絡み始めた。

1996年に入ると、子ども向けプログラムの一環として、町営プールで、泳げない子どもの初心者水泳教室指導を開始し、より高度な技術を身につけるための「アドバンスLS講習会」を開始。

視察に行ったオーストラリアのビーチでは、人々が様々な楽しみ方をしていた。それにならって「浜に多くの楽しみを導入したい」と願い、だれでも参加できる初心者限定のボディーボード大会を考えた。競技・コンテストにならないように「カーニバル」と名付け、当初は出場者を1年未満、2年未満に限定して「ジャパン・ボディーボード・カーニバル」を開催。内容もトッププロによる教室や仮装大会、リレー、スタンプラリー、ミスコン、抽選会等とにかく楽しさを強調。評判も良く、盛り上がっていくなか、優勝者がプロに転向していくほどに年々レベルが上がってしまった。

初年度から茨城サーフユニオン(サーファー代表団)に審判を依頼したが、それが思わぬ効果を生んだと信じていると言うのも、我々はビーチにおいて、サーファーのルール違反やトラブルを経験したことがまったくないからだ。サンビーチに集まるサーファーは、レスキュー時のアシスト、エリア分け、作業時の移動、浜のクローズ等、どんなLSの指示にも瞬時に従ってくれる。県内地元サーファーたちが協力していなければあり得ない現象だ。理解しあえる地元サーファーたちも、我々の自慢の一つと言える。また、町営温泉施設の屋内プールを基本設計(ユニバーサルデザイン)した。

偶然、パトロールで「海に入りたいのに、着替えもできない」と漏らす車椅子の親子に出会い、「水辺を誰もが安全に楽しむ」という我がクラブの原則に漏れがあることを知った。一同、愕然と恥入った。その日のミーティングでメンバー全員がポケットマネーをはたき、実現のための募金を始めた。

翌1997年、町の理解、観光課の行動力、地元工務店との協力のもと、未完成ながら「バリアフリービーチ」をスタートした。

①専用駐車場からのアプローチ

②トイレ付更衣室にスロープ

③車椅子を預かり、水陸両用車いす(ライフジャケット付)を貸し出す。

「バリアフリービーチ」と呼ぶには程遠いものであったが、反響は全国的なものとなった。まさに手探りの見切り発車にもかかわらず、利用者の方々のアドバイスや励ましでLSは助けられ、成長もした。

加えて、浜の通年スポーツ利用を目指し、秋&春にマウンテンバイクの大会「MTBチャレンジ」を開催した。駐車場のダートコース+突堤の舗装コース+浜のサンドコースを利用した数種のレースや教室をラインナップ。多くの参加者が集まった。これらを含む浜でのイベントを「鮟鱇(あんこう)祭り」と名付けたことによって、いみじくも時はインターネット時代、徐々に広まった名はやがて名物へ・・・。そして我々は、クラブの活動基盤を「教育」「福祉」「交流」とした。

1998年、地元の小学校1校で教育プログラム「小学校・ライフ・セービング・プログラム」を開始。漁業継承者低迷の問題も絡み、地域の要望が拡大した。

翌年から全ての小学校で採用されることとなり、今では町の子どもたち全員にLSを経験するチャンスがある。つまりは、そう遠くない将来、全ての町民がLS経験者となる可能性があるということだ。

また、この年の12月、人材・情報交換を目的として、オーストラリアのコナラ・ライフ・セービング・クラブと姉妹提携を結んだ。

「ユニバーサルビーチ」の誕生
(1999年)

移動手段としての特殊車椅子は定着したものの、バリアフリービーチとしては何かが足りなかった。それは「利用者とのコミュニケーション」で、我々の未熟さが起因していた。

反省も込めて、彼らとの「心の共有」を目指し、単純な発想ではあるが、「明るい挨拶」から再出発してみた。バリアフリーはハンディー側のためのものだが、我々を含めてみんなが変わらなければ意味がないと考え始めた。そんな自戒を込めて、勝手に「ユニバーサルビーチ」と改名。原点に戻り「誰もがみんなで楽しめる」(ない人もいるかもしれないが)ビーチゲームなどを手作りして、「+α(プラスアルファ)」を楽しんでもらう「ユニバーサル・スポーツキャンペーン」を試行した。「ユニバーサルビーチの理念」や「自然資源を教育資源に展開」といったことを後援会に提唱し始めたのもこの頃である。

「すべての人にやさしい」を目指して
(2002年~2008年)

2002年には、特殊車椅子を借りるのにかかる時間と手間を短縮する目的で、カード登録のみの会員制度「ユニバーサルビーチ登録会員制度」をスタートさせた。翌年には、60歳以上のシルバー世代に向けた「シルバーLS育成プログラム」にチャレンジ。

そして、2003年10月、こうした活動の成果が認められ、「水辺のユニバーサル・デザイン賞」受賞。ユニバーサルビーチ会員も200名を超える。

2004年、自然体験学習センター「NPO法人大洗海の大学」ANCO開講に協力。ANCOが開催する各種イベントにクラブが参加することで、メンバーのスキルアップにも効果があった。

炎天下のビーチに数万人が集えば、100~300人単位の迷子が多発する。この年、6基あるタワーの1つで1日70人を超える迷子を記録した。子どもの目線に立ってみると、パラソルジャングルの中から見えるのは空だけ。ビーチでの迷子は危険と隣り合わせで、緊急を要す。この問題を解決するために、2005年、日本大学理工学部の近藤健雄教授のゼミとジョイントして「迷子防止と早期発見」への取り組みを始めた。

2006年には、夏季シーズンにはパトロールセンター前(レスキューエリア)を「教育エリア」とするとともに、近隣地域の講演会や学校の道徳授業に出前講義を行った。ユニバーサルビーチ会員数も450人へと増加。

2007年には、ユニバーサルビーチ10周年。その記念企画として「ユニバーサル・ビーチ・フラ(ダンス)」を開始。

週末土日の昼下がり、ユニバーサル会員に加えて、呼びかけに応じて集まってくる人々。地元のフラチームが交代で指導し、舞台を盛んに盛り上げる。太陽の下、海原をバックに多くの人々が共有できるリズムと笑顔。車椅子の子どもが立ち上がって体を揺らす。みんなで踊るから楽しい。

「一緒だと楽しい」

参加者以外の多くの人々は、これを遠巻きに垣間見るだけど、数万人の人々にも「“楽しい”ユニバーサルのヒント」を持ち帰ってもらうことこそが実はフラ企画の裏(?)目的でもある。

そして10周年を記念するこの年の12月、今までの活動が評価され、内閣府バリアフリー化推進功労者奨励賞を受賞することとなった。

翌年2008年には、ライフジャケット、浮き輪等何でもありの遠泳大会、「ユニバーサル・オープンウォーター」を開催。沖からビーチを見ながら、波間に漂う楽しさを知ってほしかった。

毎週土日にフリーの記録会を開催し、シーズン末に大会を実施した。5歳~65歳の子どもからシルバー世代まで、そして全日本級アスリートからハンディーを持った子どもまで総勢百名以上が参加。スタート前には全員で手をつなぎ、波間に巨大な一つの輪を作った。そして、全員が各クラスの目標を目指しながら、一つのコースでチャレンジ。順位はないけれど、みんなが励ましあいながら一つのコースで海を楽しんだ。海水浴客からもあたたかな声援が飛び交い、感動的な反響が多く寄せられた。

「皆で楽しむ」を目指して
(2009年~2010年)

2009年、10年以上たったランディーズが老朽化して支障をきたしてきた。思い切って高額ながら、フランスから「ヒッポキャンプ」という3輪のリゾートっぽいオシャレな車椅子を購入した。意外に使い勝手が良く、以降は全て3輪車にチェンジした。

ユニバーサル・メニューは飽和状態となったが、ビーチヨガ・ビーチストオレッチ等を加えながら、余力を利用者同士の融合に費やしている。

津波・風評被害からの復興を目指して
(2011年)

3.11  異様な揺れであった。異常を感じた漁師たちは、沖に出港し8割の船舶が無事であった(東北では8割の船舶が被災)。津波は、夜半までに五波を数えたが、第2波・3波は大洗港で最大4.9mに達した。街中は相当の被害があったものの、町長の英断によって下された「避難命令」と消防本部の防災無線「長時間連呼」によって直接犠牲者ゼロという奇跡的な結果を残した。

サンビーチでは、西から東に向かって横から押し寄せたように見えた。約2mだが、道路手前のLS倉庫は跡方も無く消えた。後日、街中等で数本のボードやカヤック、チューブが発見回収されたが大方のパトロールグッズ、まして書類等は見事に消え去った。

津波は1mで人は死ぬと聞く様変わりした浜に立てば、真黒な砂を覆うばかりの家財や船舶、引きはがされた敷石や曲がった電柱恐ろしい力を実感した。

町民性なのか?街の回復は早かったものの、果たして2~3か月後に迫った海水浴場オープンが現実的なものかは疑問であった。

5月のゴールデンウィークにクラブで“放射能の独自測定”と“海水浴客の避難経路の実踏計測調査”を行った。その結論は大気と砂の放射能は問題なし。海水浴場開設の条件として、①海水測定②水底の瓦礫調査③津波対応の安全確認④避難路の確立に絞った。

独自の津波対策を策定

町の各担当課合同協議の中で、LSサイドの条件も含め“今年度の海水浴場開設”が確認された。

LS協会の集まりにて、全国のLS現場の津波対策が無きに等しい事を知って驚くとともにスーパーバイザーとしてマニュアルの必要性を提言した結果、6月の全国大会にて「大洗の海水浴場津波対策」を発表。予報・注意報・警報に沿った段階的な避難誘導の具体案であった。湘南からウィンドサーフィン店を中心とする、津波=オレンジ旗の共同実施を打診されたが、大洗では「特大の赤旗」を避難サインのメインとした。津波以外の災害や雷・生物に対しての緊急避難にも対応すべきだからだ。

7月に入り我々も、現場での車椅子の避難対応等を含む「避難誘導トレーニング」を開始。海開き1週間前の週末に最終の「遊泳エリア水底安全確認」を実施した。

LSに加えて県内のサーファー、計百人が浜から垂直に一直線となり1.3Kmのエリアの点検を行う様子は壮観かつ感動的であった。結果は石の数個があったのみで、過去に類無き不思議なほどの奇麗さであった。

思えば、海水浴場開設自体が夢のようで、良く間に合ったものだった。しかし、予想がついていたとは言え、東京ナンバーの車両が95%減(Z私感)シーズン計70~75%減と言う厳しい現実があった。我々の心配は、津波に集中していたが、東京方面の感覚では、「福島の隣県」として大方が放射能に対する恐怖心を抱いているようであった。

こんな時こそ原点に返り「危険な自然を知り、共存する楽しさ」を学ぶ事を伝えていくことが大切なのではないかと感じた。実際、「ユニバーサルビーチが消えてしまうのではないか?」と懸念された方々やリピーターの方々から多くの励ましや問い合わせを頂き、サンビーチというフィールドにも見えない“絆“が存在するんだと初めて認識した。

「ビーチセンター」を拠点とする『ビーチ・コンシェルジュ』を目指して
2012年)

クラブ創立20周年目の夏が来た。大洗の観光を、サンビーチの行く末を結論付けるシーズンとして不安含みでオープンした海水浴場は、晴天続きの記録的猛暑。未だに続く風評からか、新入部員も少なくキツイ夏であった。特筆すべきは子どもたちの教育事業“JrLSプログラム”の参加が予想以上に多かった事だ。何があっても波打ち際でハシャグ子ども達の笑顔は変わら無い。東京ナンバーは相変わらず少ないが、トータル60%(最高入り浜数8月12日・90%)にまで回復し、“2~3年以内に元に戻る”という手堅い希望をもたらせたようだ。

“津波被災の最南端、犠牲者ゼロの最北端?”の町にチャンスがあるならば、是非とも防災一辺倒の護岸工事に偏らず、ビーチを通年安全に楽しむ拠点『ビーチセンター』の実現を切望する。常駐するLSは利用者に対しての『ビーチ・コンシェルジュ』を目指し多くの機能を展開出来る。また、観光客が安心して浜の散策を楽しめる仕掛けとして“津波等の自然災害時に土地勘のない観光客を安全誘導出来るボランティア組織”を作れないものだろうか?

なんせ、ネーミングからユニフォーム、旗や装備品、隊員候補まで既に妄想済みである。

『脱兎(DAT)』Daring Angel of Travelers

昨今の人不足、人材不足に悩みながら、クラブの質的維持に苦慮する毎日が報われようなどとは期待しない。しかし、LSの使い方によっては、地域振興に関る更なる可能性が生じるのでは?との錯覚に苛まされるのだ。

おわりに 

ビーチが国を変える?

我が国において、「海水浴」は、「国民的スポーツ」とも呼べるが、ビーチ自体はまだまだ通年利用には至っていない。大洗サンビーチでは、夏季以外も毎月、車椅子の方々を交えた青空(吹きっさらし)ビーチ集会を行っている。フライングディスクやバーベキュー、川柳等、テーマを決めてみんなで楽しむ「ユニバーサルな居場所づくり」を目指したい。

オーストラリアでは、各浜辺にLSが通年型の拠点施設を持ち、海辺をコーディネートしながら、水辺活動を観光の目玉から国の文化にまで発展させてきた。ビーチが国を変える?冗談ではなく、我々の目標である。

ビーチは人々に「癒し」を与え、「絆」をつくり、「活力」を生み、「健全な文化」を育む大切な資源だ。サンビーチにおけるLS企画は、すでにクラブの許容量を超えているのかもしれない。しかし、「ユニバーサル・アミューズメント・ビーチ」を目指すためのLSチャレンジは今後も果てることなく続いてゆく。

 我々にとってライフセービング活動は、ただの「シーズン・パトロール」ではなく「人間の尊厳を守る」愚直な社会活動(社会教育)として存在するからだ。

(ZICO足立)